柔道家なら覚えておきたい柔道の歴史として、その創始者:嘉納治五郎の人生を知ることこそ、そのまま柔道の歴史を知ることになります。

嘉納治五郎を知れば、きっともっと柔道が好きになり、より練習に熱が入り、より柔道が上達し強くなるでしょう。

1860年12月9日、嘉納治五郎は摂津国御影村(兵庫県神戸市東灘区御影町)に生まれました。

嘉納家は、現在でも有名な酒造メーカーです。

酒造りの3大要素は、米、水、杜氏(とうじ、とじ、日本酒をつくる職人)といわれますが、嘉納家が日本最大の酒の名産地になった理由は水でした。

「宮水」「霊水」などといわれるこの土地の地下水は、適度な硬度があり、鉄分を含まず、味が落ちない良質の酒を量産することができました。

江戸時代中期には、灘の酒が江戸に運ばれる酒の大半を占めるようになりました。

嘉納治五郎が生まれた7年後、1867年12月9日、明治維新により樹立した新政府が王政復古の大号令を発し、徳川家康から始まった700年の封建制度は終わり、日本は近代国家の第一歩を踏み出しました。

柔道の歴史をさかのぼると、このような時代背景になってしまうのです。

1.外国研究の専門学校、東京大学と進学、そして柔術を学び、教育者となる

父が明治政府に招聘されたため、13歳の嘉納治五郎も上京しました。

14歳で私立育英義塾に入学し、オランダ人の先生とドイツ人の先生から英語とドイツ語を学びました。

また自身の小さな体にコンプレックスがあったので、非力な者でも強力の者に勝てるといわれる柔術を学びたいと思いましたが、親に反対され断念していました。

16歳のときに、官立開成学校(洋学研究の教育機関、いわゆる専門学校)に入学し、その後、東京大学に入学しました。

このとき念願の柔術入門を果たし修行を開始し福田八之助から天神真楊流柔術の教授を受けました。

福田八之助はとにかく強い柔術家で自ら

「俺は強い」

と豪語し、浅草寺に献額(門下生の名を書いた額を寺社に献納すること)したときも

「もし自分より強い者が現れたらいつでも撤去する」

といいましたが、撤去されることはありませんでした。

「(福田)先生に投げられたときに『どうやって投げたのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」

(嘉納治五郎)

福田八之助について嘉納治五郎は柔術の稽古を励みました。

1878年5月14日、大久保利通が宮中に赴く途中、刺客に襲われて死亡しました。

1879年7月、第18代アメリカ大統領:グラントが来日し、嘉納治五郎は柔術を紹介しました。

同年8月、福田八之助が52歳で亡くなり、嘉納治五郎は弱冠20歳で道場の指導を継いで、自身も天神真楊流の家元:磯正智に学びました。

1880年1月、まだ東京大学の卒業前でしたが、学習院大学の嘱託講師として、政治学と理財学を英書と日本語で教えるクラスを担当しました。

学生の多くは彼より年上でした。

同年7月、東京大学を卒業し、正式に学習院の教師となりました。

1881年、天神真楊流の家元:磯正智の死後、起倒流の飯久保恒年について修行を開始します。

以後、当身技・固技に優れた天神真楊流柔術、投げ技に優れた起倒流柔術を学んだ嘉納治五郎は独自の柔術を創っていきます。

1882年1月、東京高等師範学校(現:筑波大学)校長となり、同年4月には学習院教授、宮内省御用掛を免ぜられ文部省参事官を命ぜられます。

「教育にはいろいろの種類がある。

しかしこれを大別すれば、専門教育と普通教育とに分かれる。

この二部門はどちらも等しく国家の大切なる施設に相違はないが、強いて軽重を論ずるならば、自分は普通教育に一層重きをおかなければならぬと思う。

なんとなれば、普通教育は二重の任務をもっているからである。

即ち一は、多数国民の教育であり一は専門教育の基礎教育である。

いかに少数の人が高い専門教育を受けておって各般の研究が進んでも一般の国民が道徳的に知力的に、また身体的に貧弱なものであれば、その高い専門教育も用をなさぬこととなる。

即ち専門教育を受けた人も、実際に当たりては多数普通教育のみをうけたる人とことをともにせねばならぬからである。

また専門教育の基礎として普通教育を見るときは専門教育を受け得る能力は普通教育の時代に養われるべきである。

よい普通教育を受けておればその上に受ける専門教育の成績が上がってくる。

これと反対に普通教育の基礎がよくないと専門教育は効果を顕わさない。

また道徳教育の根本は普通教育のおりに養われる。

もっとも緊要なる教育は、小学校以前の家庭教育にあるといってよい。

三つ児の魂百までというがごとく幼少時の教育は人の一生を支配するものである。

それ故、小学校、中学校の教育において受けた道徳教育が人の一生の行動を支配するということになる。

中等教育以後の修養も軽視することはもちろん出来ぬが、自分は中等教育を終わるまでの間に養い得た力というものが人に最大なる精力を与えるものであると信じている。

これを細論すれば、いろいろの方面にわたりていい得るが、まず主なるもの二、三をあげてみよう。

善悪正邪を判別する力、正しいことをして満足し、よこしまなることを行って不快を感ずるという心、

これらの修養は、終生つきまとうところのものであって中等教育以前にすでに養われる力である。

およそ社会の表面に立ちて大なる仕事をなす場合、その人の力は中等教育以後の教育によって養われるものが多いが、普通教育において道徳的修養の出来ていなかった人は力はあっても、その方針を誤ることが少なくない。

大なる力はあっても誤れる方向にこれを用いるときは人を益せず己れを誤る結果を生ずる。

これに反して、たとい力は微弱でもこれを用いる方向が正にして善なる場合においては、その力相応に人をも益し己れをも利することが出来るであろう。

なおまた、普通教育の方法いかんによりては、その人の天稟を根底より動かし得ないにもせよ、素志を貫く力、困難にたえる力、労を人に譲らぬ心がけ、保健に努力の習慣、

これらの力は大いに普通教育の時代に養わるべきである。

しかして専門教育のときによくその効果を挙げる人々は、普通教育において養われたるこれらの力いかんによるものである。

即ち普通教育の基礎いかんによって専門教育の効果が別れると見てよい。

この道理により、専門教育・普通教育、いずれも偏重することが出来ぬが、しいていえば、普通教育をもって第一と考うべきであろう。

高等師範学校は我が国普通教育の渕源であり、文部省普通学務局はその行政をつかさどる官庁の当局であるから、この大切なる普通教育の方針を誤らず、正しき発達を遂げしめようとしてこの両所に長い間職を奉じていたのである」

(嘉納治五郎)

2.講道館

1882年5月5日、学習院教授時代に住まいとして借りていた永昌寺(東京都下谷北稲荷町)に、旧来の柔術各流派の優れた部分を集め、研究を重ね、かつ教育的な視点を盛り込んだ「講道館」を創設し館長となりました。

初年度の入門者は富田常次郎、西郷四郎、山県正雄、白藤丈太郎ら9名でした。

当初は本堂脇の座敷を練習場にしたところ、振動で仏像が傾き、位牌が倒れたため、別に12畳の道場を建てられました。

「永昌寺は浄土宗で、かなり広いお寺であった。

そうして当時の住職を朝舜法と称して、仲々気骨あるおもしろい坊様であった。

永昌寺の門を入ると、正面に破風造りの堂々たる玄関があった。

玄関から右折すること五六間、そこにまた小さい冠木門がある。

そのつき当たりに格子戸作りの平民的な玄関があった。

この一構えは、一見、寺の内部とは連絡なき一廓とも見えた。

当時、大学卒業早々の我が嘉納治五郎先生は、差し当たり此の一廓の六間を賃借して寓居とせられた。

お寺はどこでも概して閑静で、脱俗的で、然も建物が宏壮であるから、住居としても、道場としても、普通の民家より感じがよかった。

嘉納先生がこの寺を選ばれたのはそのためであったろう」

(富田常次郎)

現在、永昌寺は、地下鉄銀座線上野駅の1つ浅草寄りの駅、稲荷町の北側にあります。

本堂に向かって左手の塀際に碑が建っています。

昭和43年に講道館が建てたもので「講道館柔道発祥地」と書かれています。

3.「講道」「精力善用」「自他共栄」

「講道」には、「道を学び、明らかにし、実践する」という意味があります。

従来の「柔術」を「柔道」とし、「道」を重んじ、単に技を修得するだけでなく天下の大道を学ぶものとし、その教育場を「講道館」と呼びました。

柔道修行の目的は、攻撃・防御の練習によって身体を鍛練して強健にし、精神の修養につとめて人格の完成をはかり、社会に貢献することであるとし「精力善用」「自他共栄」を掲げられました。

4.「崩し」「つくり」「かけ」

柔道の根本原理は、「身体と精神を最も有効に働かせる」ということです。

この原理を技に生かしたのが「つくり」と「掛け」の理論です。

「つくり」は、相手の体を不安定にする「崩し」、自分の体が技をかけるのに最も良い位置と姿勢をとる「自分をつくる」ことから成り立ちます。

「かけ」は、つくられた一瞬に最後の決め手を掛けることをいいます。

「昔、柔術という名称で攻撃防御の方法が教えられていた頃は、原理の応用としてではなく個々の先生の工夫としてであった。

ある先生は人を投げるにはかうするがよいとか、逆を取るにはどうするがよいとかいう風に、一の原理の応用としてではなく人々の工夫として教えていた。

それだから柔術は幾多の流派に分かれることになったのである。

柔道とは多くの技から帰納した根本原理に対する名称であり、自分の工夫を教えるのではなく誰でも自身にそれに基いて工夫し得る根本原理を教えたのであるから未来永劫亡びることはない。

嘉納治五郎の教えた技でもその原理に合わなかったならば、それは本当の嘉納治五郎の教でなく嘉納治五郎が応用を過ったのである。

柔道の原理とは、物理学でいう偶力「物体に働く大きさが等しく向きが反対の一対の力」のことであり、二点、二方向に反対に加わる力によって相手が前後左右に倒れることになるわけである。

例えば「大内刈」であれば刈る足の掛る位置、踏み込む軸足の位置、その他細部に多少のズレはあっても、世界中、エジプト人の掛ける技も、ロシア人、アメリカ人の掛ける技も大内刈は大内刈であって、問題はどこまでその技を原理に基づいて考究練磨するかにある。

襟や袖をつかむ位置、仕掛けるタイミングや間合等々にあらゆる工夫をこらし、より切れ味の鋭い大内刈、より深みのある大内刈に仕上げ、名人芸、神技と呼ばれる領域をめざすのが修業者個々人の目標である」

(嘉納治五郎)

5.講道館四天王

講道館には四天王と呼ばれる高弟がいました。

富田常次郎、西郷四郎 横山作次郎、 山下義韶 です。

彼らは他流試合の時は、講道館の代表として戦い、講道館の道場では、師範代として柔道を広めました。

1.富田常次郎

富田常次郎は、静岡県沼津市出身で、上京し、嘉納家の書生となり私立学校で普通学・漢学を学びました。

嘉納治五郎とは天神真楊流を共に修行した間柄で、共に柔道の研究をすると共に英語を学び、英語教師になりました。




警視庁柔術指南役の良移心頭流柔術の中村半助と試合し、これを破りました。

講道館の最初の入門者であり、講道館で最初の黒帯(初段)となりました。

2.西郷四郎

西郷四郎は、小説「姿三四郎」のモデルでもあります。

会津藩士:志田貞二郎の三男として生まれ、一家は、戊辰の戦乱を逃れ、津川(新潟県)に転居しました。

西郷四郎は、16歳のときに、会津藩家老を勤めた西郷頼母の養子となりました。

西郷頼母は、会津藩秘伝の大東流合気道柔術の継承者で、柔術の達人でした。

大東流は西郷頼母から武田惣角へ、そして植芝盛平と受け継がれ、現在の合気道となりました。

17歳のとき、西郷四郎は陸軍士官を志して上京しました。

しかし身長が5尺(約150�p)と小柄だったため断念しました。

その頃、嘉納治五郎と出会い、講道館に入門しました。

小兵ながら天性の素質と激しい稽古で、すぐに頭角を現しました。

講道館に挑戦してくる他流柔術家を返り討ちは日常茶飯事で、稽古の帰りに至るところで喧嘩を買いました。

大相撲の力士をぶん投げ仲間の力士と大立ち回りを演じたこともありました。

得意技は山嵐。

右手は、右手甲を上に、親指を内側に、相手の右横襟を取り、左手は、相手の右袖の外側を取ります。

右手で釣り込んで、相手を右前に崩し、相手の右膝頭を足を飛ばして刈って投げるという技です。

山嵐で投げられた相手は受身を取れず、頭から叩きつけられ昏倒し、その柔道着は、左の襟が破れて使い物にならなくなったといいます。

戸塚派楊心流の昭島との闘いは、まさに死合いで、現在のようなルールはなく、西郷四郎が電光石火で放った山嵐が相手の頭を地面にたたきつけ決着しました。

西郷四郎は嘉納治五郎の海外視察中、『支那渡航意見書』を残し、講道館を出奔しました。

志と野望を抱いて中国に渡り、大陸の各地を転々とするも、志を得ずに帰国。

長崎に住んで「東洋日の出新聞」の経営に加わるも失敗。

晩年は尾道で暮らしました。

小説「姿三四郎」の作者は、富田常次郎 の息子:常雄です。

主人公の姿三四郎は会津に生まれ17歳で上京。

三四郎は、学士の矢野正五郎(嘉納治五郎がモデル)の柔道場に入門し、天才といわれ、柔術家、ボクサー、空手家などに勝利しつつ、人間として成長してゆきます。

3.横山作次郎

横山作次郎は、東京に生まれ、天神揚流を学んだ後、講道館に入門しました。

身長173cm体重86kg。

柔道の素地があり、体力に優れ、稽古熱心でした。

「鬼横山」といわれ、得意技は払腰、俵返し、横捨身、自らが編み出した天狗投でした。

天狗投は、現在ではどんな技かもわかっていません。

伝説の柔道家、柔道の神様といわれる三船久蔵や、異種格闘技戦を含め、世界中で試合を行い、柔道着を着た試合では無敗、そしてブラジリアン柔術の創始者である前田光世の師匠でもあります。

4.山下義韶

山下義韶は、小田原藩(神奈川県)の武芸指南役の家に生まれ、講道館に入門3ヵ月後には初段を取得しました。

警視庁柔術世話掛を務め、アメリカに渡り、柔道の普及に尽力しました。

ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドというレスラーと試合をし、抑え込みで勝利しました。

山下は162cm68kg、ジョージ・グランドは200cm160kgでした。

これをみたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ、2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となりました。

契約期間満了に伴い帰国し、その後は講道館の指南役となり、講道館で最初に十段位を許されました。

6.他流試合

1883年、道場が麹町上二番町に移され、富田常次郎、西郷四朗が最初の初段となりました。

1885年、警視庁武術大会で、講道館柔道が柔術の諸流派に圧勝しました。

1887年、嘉納治五郎は、学習院教授兼教頭となり、哲学館(東洋大学の前身)で講師となりました。

海軍兵学校に柔道科が設置され、慶応大学、東京大学でも講道館柔道が始められました。

1888年、講道館柔道は戸塚派楊心流に圧勝しました。

戸塚楊心流流は、型稽古中心の他の柔術諸流派と違い、江戸時代から乱取稽古の先駆をなしていました。

戸塚楊心流流四天王の実力ナンバー1といわれた大竹森吉は、相手の関節を極めながら深く相手の懐へ飛び込み、急角度で投げを打ち脳天からたたき落としました。

「他方面から講道館に試合に来たものには大したものはなかったが、さすがに警視庁には全国から大家を集めただけに、ここには相当あなどるべからざる相手も少なからずおった。

しかし、投技においてはほとんど恐るべきものがなかった。

ただ、寝技にかけて講道館のものを相当苦しめたものがおった。

後になっては研究をつんで、恐れないまでになった。

ここに警視庁における試合について特記すべきことがある。

それは揚心流の戸塚門下のものと講道館のものとの試合である。

幕末当時の柔術家で日本第一等強い門下を持っていたのは戸塚彦助であった。

維新後になっても、なお当時の名人が残っており、戸塚彦助本人もまだ達者であり、その後継者の戸塚英美もおって、その手に育てたもののうち、なかなか技の秀でたものがあり、千葉県に本拠を据え、斯道に覇をとなえていたのだ。

明治二十、二十一年頃になって、講道館の名声が知れ渡るにつれて、警視庁の大勝負となると自然戸塚門と講道館と対立することとなる。

二十一年頃の或る試合に、戸塚門下も十四、五名講道館からも十四、五人、各選手を出したとおもう。

その時四、五人は他と組んだが、十人程は戸塚門と組んだ。

戸塚の方では、技師の照島太郎や西村定助という豪のものなどがおったが、照島と山下義韶とが組み、西村と佐藤法賢とが組合った。

川合は片山と組んだ。

この勝負に、実に不思議なことには、二、三引分けがあったのみで、他はことごとく講道館の勝となった。

講道館の者はもちろん強くはなっていたが、かほどの成績を得るほどまでに進んでいたとは自分は考えていない。

全く意気で勝ったのだと思う。

実力は戸塚もさすが百錬の士であって、たやすく下風につくものではなかった。

さきに言う通り、維新前では、世の中で戸塚門を日本第一の強いものと認めておったのだ。

しかるに、この勝負があってから、いよいよ講道館の実力を天下に明らかに示すことになったのである。

この勝負ののちのことであったと思う。

当時戸塚は、千葉県監獄の柔術の教師をしていたそうだが、時の千葉県知事船越衛の命を受けて、高弟西村定助を同伴して、講道館の教育の方法を視察にきたことがある。

いろいろ説明してのち、西郷が誰かを相手に乱取をしているのを見て、戸塚英美は評して「あれが名人というのでしょうな」といったことを記憶している。

その評を聞いて大いに満足した。

幕末には、戸塚といえば柔術の最大権威であった。

天神真揚流の自分の師匠も、起倒流の名家飯久保先生も戸塚一派とは幕府の講武所においてしばしば戦って苦しめられ、戸塚には強いものがおったということを聞いていたのであるから、自分が育てた西郷の稽古を見て、今日の戸塚の代表者から、そういう評を聞いた愉快というものは譬えることの出来ぬほどであった。

そのことは、当時はもちろん、その後も余り多く他人に語らなかったが、今日まで深く記憶に残っている」

(嘉納治五郎)

7.柔道の海外進出、オリンピック招致活動

1889年、嘉納治五郎は宮内省御用掛として1年間欧州に派遣され柔道を紹介しました。

1891年、欧米視察の帰りの船の中でロシア人士官に挑まれ、これを投げました。

1893年、講道館に初の外国人、英国人エイチ・エム・ヒューズ大尉が入門しました。

1894年、100余畳の道場を新築され、その落成式が執り行われました。

このとき幕末最後の幕臣であり、江戸城の無血開城、明け渡しを行った勝海舟が来賓の1人としていました。

勝海舟は、嘉納治五郎の技に感銘し、そのときの事を揮毫(きごう、毛筆で何か言葉や文章を書くこと)して贈りました。

「無心而入自然之妙、無為而究変化之神(無心にして自然の妙に入り、無為にして変化の神を究む)」

1896年、第1回オリンピックがアテネで開催されました。

参加国は欧米先進の14ヶ国。

参加選手は男子のみ280人。

陸上、水泳、体操、レスリング、フェンシング、射撃、自転車、テニスの8競技43種目が行われ、陸上競技の11種目中9個の金メダルをアメリカの選手が獲得しました。

1902年、山下義韶が渡米し、ルーズベルト大統領に柔道を教えました。

1903年、三船久蔵が講道館に入門しました。

159cm、55kgの三船久蔵は横山作次郎に師事し、球車、大車、踵返し、三角固めなど多数の新技を開発しました。

その真髄といえるのが隅落、別名:空気投げです。

1907年、剣道・柔道が、中等学校の正科となります。

1909年、嘉納治五郎は、アジア初の国際オリンピック委員となりました。

1911年、大日本体育協会(日本体育協会)が設立され、嘉納治五郎はその会長となりました。

1912年、第5回オリンピックストックホルム大会が開催され、日本は初参加しました。

嘉納治五郎は、金栗四三、三島弥彦の2名の選手を引率する監督役員として、日本人最初のオリンピック出場を果たしました。

大会直前、「Japan」と表記されていることに対し、嘉納治五郎団長は「Nippon」と主張した。

金栗四三は32km過ぎで日射病で倒れ、三島弥彦は100m、200mともに予選最下位で終わりました

1920年、段級規定が発表されました。

1926年、講道館に女子部発足しました。

1930年、全日本柔道選士権大会始まりました。

1933年、小崎甲子が女子で最初の初段となり黒帯となりました。

きっかけは18歳のときに本屋で偶然手にした「柔道大学」という本でした。

道場の門を叩き「ひとり稽古」を3ヵ月続けて、やっと入門の許可されました。

しかし女子であるために昇級試験はおろか試合の機会も与えられないまま2年。

「努力と熱意で制度の扉を開けたい!」

と21歳で大阪の道場の内弟子になり、5度目の昇段試験で規定の3人の男性を倒しました。

「実力さえあれば女だっていいじゃないか」

と嘉納治五郎にいわせ、女子柔道の道が開かれました。

嘉納治五郎は、生涯13回も外遊し、その都度柔道の講演、実演をして、その紹介と普及につとめました。

またオリンピック大会の日本招致にも奔走しました。

そして1936年、IOC会議で第12回大会(昭和15年予定)の東京招致と、2年後の第5回冬期大会の札幌招致に成功しました。

史上初の有色人種国家、そしてアジア(欧米以外)で行われるオリンピック大会でした。

1938年、嘉納治五郎は、IOC総会で東京オリンピック招致を決定後、帰国中の氷川丸の船内で肺炎により永眠しました。

77歳でした。

そしてこの東京オリンピックは、日中戦争の影響などで日本政府が開催権を返上しました。

柔道の歴史の最初は、このように嘉納治五郎の物語なのです。

現在の柔道でも、オリンピックや選手の生き様をみていると、非常にドラマチックで波乱万丈、山あり谷ありです。

それは嘉納治五郎がそうであったかもしれません。

やっぱり柔道って素晴らしいです。

さて、どうでしたか?

冒頭に申しましたように、柔道が好きになり、練習がしたくなりましたか?

もっともっと柔道を好きになって、練習に励み、上達し強くなりましょう。






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