戦国時代、やわら、柔術、組み討ち、拳法などと呼ばれ、戦場で敵と組み合ったとき相手を倒し討ちとる技術が発達しました。

江戸時代には、竹内流、堤宝山流、荒木流、関口新心流、制剛流、渋川流、起倒流、直信流、揚心流、扱心流、天神真楊流など柔術諸流派が隆盛を極めました。

明治10年、嘉納治五郎が天神真楊流へ入門し、その後、起倒流の修行も行い、さらに他の流派の研究も行いました。

そして明治15年、講道館柔道が誕生しました。

柔道は柔術との対決に圧勝し、警察、軍隊、学校、町道場などで多くの人々が柔道の強さと上達を目指し汗をかきました。

現在、「柔道」は「Judo」となり世界中で行われています。

その歴史の中で、伝説として語り継がれる柔道家たちがいます。

柔道を志すなら知っておきたい伝説の柔道家をみていきましょう。

そして自らも伝説の柔道家を目指して、熱く柔道の練習を行い、強くなり、上達しましょう。

1.三船久蔵

三船久蔵は、159cm、55kgと小柄ながら

「相手が大きいほど技をきめやすい」

と体をスイスイと動かし、すると相手は面白いように投げられました。

また三船久蔵は、「球車」「大車」「踵返し」「三角固め」、「隅落(別名:空気投げ)」など新技を開発しました。

「球車」は、自分の体力、腕力を使わずに、相手を自分の頭の上に飛ばす技です。

人間は足元にものが落ちると本能的に前に飛びのこうとします。

球車は、この心理を応用した技です。

「隅落」、別名「空気投げ」は、自分の足や腰を使わずに倒す方法はないだろうかという着目から生まれたといいます。

2.前田光世

初段への昇段試験のときは、嘉納治五郎から前田光世のみ15人抜きを命ぜられ、見事、達成しました。

柔道の普及活動のためにアメリカに渡ると、異種格闘技戦を行い、ボクサー、プロレスラー、拳法家などと戦いました。

巨漢のブッチャー・ボーイを跳び十字固で破り、ベアナックル(素手)のボクシングルールでメキシコ人と戦い、下からの十字固で倒し、中国拳法家の蹴り足をつかんで膝十字固をかけました。

その後もメキシコやヨーロッパなど、世界各地で異種格闘技戦を行い、柔道衣を着用した試合では1000試合以上して無敗でした。

そしてブラジルで、自らの「柔道」を「柔術」と改め、教えました。

これが現在の「グレイシー柔術」あるいは「ブラジリアン柔術」です。

3.木村政彦

木村政彦は、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれ、全日本選手権13年連続優勝、15年間不敗のまま引退しました。

第二次世界大戦がなければ、この記録はもっと続いていた可能性が高く「史上最強の柔道家」といわれています。

170cm85kgの肉体は鍛え抜かれ、得意技「大外刈り」は受け身をとれずに失神する者が続出したため、稽古では禁止とされたこともありました。

「3倍努力」と、自ら1日10時間を超える練習を課したり、「もし負けたら腹を切る」と実際に短刀で腹を浅く切り、切腹の練習をするなどして不敗伝説を築き上げました。

そしてブラジルで「グレイシー柔術」の使い手、エリオ・グレイシーと対戦し、大外刈りで叩きつけた後、寝技に移行し、腕絡みでその腕を折りました。

この腕絡みは、現在でもブラジルでは「キムラロック」といわれています。

4.道上伯

道上伯は、京都にあった武専(大日本武徳会武道専門学校)の柔道部で、主将をつとめていました。

その稽古中、他の人に投げられた人が、道上伯の右脚の上に落ちてきて、右膝の靭帯を断裂しました。




医者は6ヶ月間、ギブスをはめて、稽古中止を言い渡しましたが、道上伯は主将としての責任感と、定期的に部内で試合を行い決めていた格付け(ランキング)が落ちることを嫌い、そのまま稽古を続けました。

このためこ生涯、この膝は直角以上に曲げることができなくなりました。

武専卒業後、高知高校で柔道の教師(当時、柔道は学校の正課であり、各学校に柔道の先生がいました)となりました。

第二次大戦後、GHQにより、柔道は学校教育から外され、他の多くの柔道の教師たちと共に失職すると、フランス柔道連盟の要請を受け渡仏し「道上柔道学校」をつくりました。

そしてヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど36ヵ国で柔道を教えました。

道上伯は、学生時代、海外での指導者時代を通じて、柔道の試合では無敗でした。

そして指導者としても、オランダでアントン・ヘーシンクを育て上げました。

アントン・ヘーシンクは、初めて柔道が正式種目として採用された東京オリンピックの無差別級で、日本代表:神永昭夫を破り優勝しました。

そのとき喜び勇んで、試合場に駆け上がろうとするオランダチームの仲間を、アントン・ヘーシンクは手で制しました。

道上伯は「心技体」という言葉を使って、外国人に柔道を指導したといいます。

「力任せの柔道」と揶揄されることもあったアントン・ヘーシンクでしたが、この行動をみると、力だけの柔道家ではないことがわかります。

5.山下泰裕

山下泰裕は、中学校入学時にすでに172cm78kg、卒業時には180cm120kgという大型であるのに、体の大きさにものをいわす柔道ではなく、奥襟は持たず、巻き込み技も使わず、動きの中で技を出し、足技を多用し、技を3つ4つとつなぎ、スピードと動きのある柔道を行いました。

その柔道は天才的でした。

モスクワオリンピックは、政治的な理由で出場できず、涙を飲みましたが、4年後のロスオリンピックで金メダルを獲得しました。

全日本選手権9連覇、世界選手権3連覇、通算559戦528勝16敗15分、勝率9割7分2厘、203連勝という戦績を残しました。

また外国人選手には生涯1度も負けませんでした。

6.古賀俊彦

その豪快で美しい背負い投げと、一本勝ちにこだわり、一本をとるまで攻め続ける姿勢から、柔道史上で最も偉大な柔道家ともいわれています。

バルセロナオリンピックでは、現地入りした直後の練習で、左膝の靭帯を損傷してしまい、その後は減量と回復に専念し、毎日カロリーメイトだけを食べて過ごしました。

そして試合当日、膝に痛み止めの注射を射ち、ぶっつけ本番で挑み、見事金メダルを獲得しました。

7.吉田秀彦

小技から大技という一般的な連絡技ではなく、内股から内股という大技から大技という連絡で豪快な1本勝ちを量産しました。

初出場のバルセロナオリンピックでも、オール1本勝ちで金メダルを獲得しました。

また無差別で行われ、真の日本一の柔道家を決める全日本選手権の準決勝で、自分より身長で13cm、体重は44kgも勝り、しかも同大会を5連覇していた小川直也に見事勝利しました。

決勝では金野潤と対戦。

サンボの全日本王者でもある金野潤は、自分よりもはるかに軽量の吉田秀彦に蟹挟を仕掛け、これにより吉田秀彦は膝を負傷しました。

さらに金野潤は、立ち姿勢から腕挫腋固をかけて吉田秀彦の肘関節を壊した。

その後も金野潤は、2発・3発と蟹挟をしかけました。

エキサイトした吉田秀彦は、下から金野潤を両足で蹴り放し(厳密には反則)、立ち上がったとき、2人は睨み合いとなり、武道館内を騒然となりました。

結果は旗判定で吉田秀彦は負けましたが、名勝負として多くの人々の記憶に残っています。






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